日常生活から事業まで、あらゆることの達成や成功のベースは「正直さ」にあるのではないか【1390】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

「あきらめるって素晴らしい:石川孝一 著」を拝読。

記事を書いている時点で半年程前に発行されたばかりの、図書館の新書検索の中で出会ったことがきっかけです。

著者様は目が不自由であられますが、多くの人に勇気を与えるようなパワーを感じました。

自身が大きく感じたことをこの記事にまとめたいと思います。

今目の前にあることを全力でやり抜くこと

とにかく、一歩踏み出す行動力が素晴らしく、スピード感あふれます。

会社経営、政治への参加などみんなが目で見て分かるような大きなことを何ら目の不自由さが信じられない程。

全体を通して、今を懸命に過ごされている様子がうかがえました。

その時に言うべき主張はその時に、「タラレバ」ほど煮え切らないことはありません。

その時々の精いっぱいが、後を振り返った時に軌跡となって道を歩んできたのだと分かります。

そこにあるものは「誠実さ」。

まぎれもない自分自身へのものだということです。

納得いかないことは、「主張」を堂々としていくところなどは、日本人離れしておられますね。

なぜ、「あきらめる」というタイトルが入っているのか

「あきらめる」ということを「素晴らしい」と結んであります。

ここが、著者様らしさのすべての根源だと思えます。

常に活動的で考え方は非常に前向きなのです。

読ませていただくと、随分と目に関しては、試行錯誤があり、海外へも渡航しながら1つの目標(治癒)をめざされた時期があったのです。

この「あきらめるって素晴らしい」という文言は、何もご自身の身体上の事だけを指したものでは決してなく、会社経営もされてきた社長様でありますから、人生すべてにおける事項に対しての言葉だと思うのです。

ここで、自身の「あきらめたこと」を1つご紹介したいと思います。

それは、個人事業主スタート時に始めたハンドメイドバッグの製造と販売。

これが、思うように成果が出ず、ハンドメイドバッグの「人気」みたいなものを十分に得られませんでした。

そうして、2022年後半辺りから、切り口なるものを変え、「作り方ノウハウのご提供」というところを目指し始めました。

きらびやかな「ハンドメイド作家」のようなことを目指す道を「あきらめた」のです。

その他、自身の人生においても考えてみれば、随分多くの「あきらめ」がありましたが、これは、「重い荷物を手放す」とも考えられるのです。

その先にあるのは、なんと「新しい未来」なのです。

よって、「あきらめる」という言葉が否定的な言葉ではなく、「素晴らしい」と語った著者様に大いに共感した点があります。

まず一番に「自分」に対して常に正直でありたい

「Honesty」という曲がとても好きです。

正直さは、世の中の多くが偽りだましだましの中では非常に孤独を感じるものであるけれど、これこそが最もこの世で大切にしたいものだと解釈した歌です。

人の波に流されて、いつしか見失っていた「正直さ」は本当は誰に対して正直であるべきなのか。

おそらく「自分自身」に対してなのだと思います。

正直でいることが心がすっきりとして気持ちがよい毎日を送りながら、ひたむきに丁寧に一歩ずつを歩まれますよう。。

あとがき

一人の人生は1つのみ。

そして、長い目でみた地球の歴史を考えれば、ほんの一瞬の光の矢のような短い期間でしかないのです。

その期間に奇跡的にここに姿を現し、悩み考えることができる素晴らしさを毎日有難く思うべきなのです。

途中の「失敗」などは、それも懸命な毎日の中でのものならあって自然であり当然のものなのです。

一瞬ごとの人とのやりとり、すべての活動や行動に対して、精いっぱいを尽くしたものであるのかが本当の意味での「評価」のようなものではないかと思います(^-^)。

「洋服に興味なし」も立派な「主張」として装いに現れる自明、「衣」は本来着る人間の人生そのものを無言で示す手段【1385】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

このたび、「闘う衣服:小野原教子 著」という本を読ませていただきました。

本来「衣服」とは何なのかということの深堀りには貴重な本だと思います。

厳しいアパレル業界で今後もお仕事をしていく決意の際に、今一度原点に立ち戻って考えることをする際などにご一読をお勧めしたいです。

そして、今後の衣服との向き合い方や取り入れ方を考えるきっかけとしては是非お勧めの本でございます。

この本の内容に関してはご一読の解釈に委ねるということで、ここでは「衣服の装い」をもっと重視するべきではないかという投げかけ的な内容になります。

時々「服には興味なし」という方がいらっしゃいますが、実はその「意志表示」こそ「衣」の神髄なのではないかと思うのです。

人間である以上衣服を纏うことは誰もが共通する事項、同時にその人間の「人生」さえも現れてしまう自明

私のワードローブ:クローゼット無しなのでアパレルハンガーラック150cmにオールシーズンをぎっしり。

おそらくお洋服コーデが得意なアパレル業界勤務歴(事務でしたが。。)が長い大の洋服好きな自身のワードローブにも特徴があります。

たまたま私はお洋服が好きなのですが、その分野は黒ベースといった偏りがあります。

この偏りは他人からは違和感のあるラインナップに映ることもあるかもしれませんが、これこそが自身の着たい洋服でしかないのも事実なのです。

ここ近年より正直に本当に気に入ったものだけを選ぶようにしていますので、どれも渾身の1点ずつになります。

では、冒頭のようにお洋服に興味が無い人の場合を考えてみます。

とても究極な大の洋服嫌いの方の例。

お洋服選びにあれこれ悩むことさえわずらわしく、そこに大切な時間が奪われることさえ苦痛。

よってお洋服は真っ黒Tシャツとデニムと決めている人がいたとします。

ではこの人がお洋服によって何も表現していないのでしょうか。。

いいえ、十分に意志表示とメッセージを伝えていることになります。

お洋服以外の事へ「情熱」を費やしたいためにお洋服にストレスをかけないミニマムさが現れた立派な「表現」なのです。

均一なファストファッションアイテムは何者なのかが伝わりにくい危険

サイズ展開とカラーのくくりでグループ分けされた大量生産のお洋服。

ファストファッションがその代表です。

この製造形態で作られたお洋服は同じ物を他の大勢の人も着ていますので自身ならではの差別化がはかりにくいです。

とはいえ、お洋服を着ないということは決してあり得ないので、何かしらの表現を自然にしてしまっていること、この危険性をもっと真剣に考えるべきではないかと思っております。

お洋服に興味が無いから何となくでよいと思っていたらちょっと危険なのです。

他の人の目には、「ぼやけた意志表示」として誤解を招くような捉え方をされてしまうかもしれないのです。

そういった意味ではお洋服は「自分の発見」というような深みもあるのです。

勘違いしがちなのは、お洋服が表面的な「飾り=余計なもの」と考えてしまうこと。

実は、その人の「生きざま」さえも表す重要なツールなのです。

あとがき

言葉で発する挨拶だけが自己紹介ではないのかもしれません。

身にまとったお洋服こそが「無言」で出会った人や周りの人へのメッセージとなっていることにしっかり気づくことはとても重要なことだと思っています。

そこからが本当のお洋服への目覚めとして本当に自分らしい装いの発見ができる岐路に立つのではないかと。

ヨーロッパの多くの老若男女がスナップ写真の「おしゃれ」アイコンとして取り上げられるのも、コーデそのもののテクニックや着こなしの技術だけではないようです。

その人がどんな考え方を持ち、どんな人生を歩んでいるのかを映し出しているモニターのようなものが「装い」なのです。

どうでしょう、「衣」がやはり今後も重要な概念であると思えてきますね。

今一度お洋服1点1点を自身の写し鏡のアイテムだという見方で見つめてみて下さいませ(^-^)。

燃えるような赤いショールは強い決心の象徴、不登校・離婚・事業継続など様々な課題と対峙する1家族が織りなすストーリー【1376】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

よく新聞やネットで紹介されている本を読んでみることがあります。

豊富に紹介されているのですが、「図書館派」の自身は、図書館にその紹介の本が存在している場合というところに絞り、借りる本を決めます。

できるだけ多分野から、多角的にいろんなことを考えるために、事業のファッション関係に絞り過ぎず、時々関係ない分野の本も読むことも。。

このたびは小説です。

きっかけは、「ホームスパン」というキーワード、繊維分野の事業が背景ということで手にすることにした本です。

「雲を紡ぐ:伊吹有喜 著」。

主人公の祖父が営む、羊(ひつじ)の毛を有難くいただいて、ウールのショールに織りなす製造の小規模事業が背景です。

主人公から見た目線、両親一人一人から見た目線、祖父から見た目線など、小説の語り手が時々変わるところも本の構造としてはユニークでした。

本当の意味の事業の継続の瞬間

「親の跡を継ぐ」ということが昔ながらにして自営業では必ず直面すること。

ミュージシャンの子供が、反発して長い間音楽には手を付けなかったのに、最終的には親と同じ音楽の道を行くことにした例。

お寺さんが跡を継ぐことに反発して若い頃家出をし、長いこと経った後帰ってきて、新しいお寺さんの形を作り継承していった例。

そういったことを後から振り返るととても不思議であり、何か別の力が働いていたかのようです。

「輪廻:りんね」という仏教用語があると思うのですが、なぜかこの言葉が浮かびました。

この小説の中では跡を継がなかった主人公の父と反対に、主人公は自ら惹かれるように東京から東北まで出ていったのです。

出ていった娘を心配し、父や母も後を追います。

そうして、離れ離れの一族が集まる機会が出来ました。

その惹かれた何か見えないパワーのようなことがきっかけでこのストーリーが展開。

自身も、母がミシンを使い洋服を作っていた、刺繍の機械でワンポイント刺繍のロット生産の受注をしていたファッションに関わる分野の仕事をしているのを見ていました。

また、小学生の頃に自宅に鉄の足踏みミシン(レトロなやつ)があり、学校のぞうきんを縫う機会、運動会のハチマキを作る機会、家庭科の作業などをきっかけに縫製に触れる瞬間がありました。

それ以外でもふと思い立って勝手にロックミシンを触ったり、変な使い方でしたが、ロックの縫いの固定でそれとなく生地をつなげてポーチを作ったりなどしました。

特に、引き継ぐようにとかそんなことは全く無かったのですが、振り返ってみれば同じ業種で仕事をする今があることも事実。

こういった目に見えないつながりは「輪廻」だと思えます。

10代というのは、すごく影響を受けやすい年齢。

まだ何も方向性が決まらずとも、1つの事に対する印象や感動が思いの他根強い。

大きくなってからもそのきっかけを覚えているくらいの衝撃的な場面であることも多いと思うのです。

ある意味、小さい頃というのは多感でアンテナが繊細に働いていて、いろんなことをキャッチしやすいと言えます。

自宅にあった足踏みの鉄のミシンは、リズムに乗らなければ糸が切れてしまう感覚的な難しさがありました。

現在のコンピューターミシンとは違うのです。

そのコツを何となく、ぞうきんを作る中で得ていったという記憶です。

その時、横には祖母がいました。

あとがき

製造する「モノ」には、いろんなストーリーが宿るものです。

今後は、大量生産の構造が何とか持続できるアパレル業者はほんの一握りだと思われます。

1つの品物が高価であっても、そこに込められる哲学やストーリーが価値となるわけで、やみくもに儲け主義に走っただけのやり方はどんどん破綻していっています。

従来のアパレルが行き詰まったことを繰り返しても何の意味もなく、作り方そのものさえ見直す時です。

なぜそれを作るのか、本当に時間をここに裂いてでも作る意味が本当にあるのか、このことさえじっくり問う必要があると思います。

製造する意味のないアパレル品は見直す必要があると思います。

SDGsにもヒントになる部分もあるこの小説でした。

「洒脱:しゃだつ」と「瀟洒:しょうしゃ」が全くの別物とも思えない、互いにある共通の部分は「すっきり」している点【1374】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

高校生の頃、ファッション雑誌を見てお洋服のランナップをそろえていく夢を描いていました。

1980年代後半に読んだ「nonno」は、夢がいっぱい詰まっていたワクワクの読み物だったのです。

目を凝らしむさぼるように写真を見ていく中で、時々街角の一般の人のコーデも紹介されているコーナーがありました。

もしかして現在の読者モデルさんに近いかもしれませんし、たまたまその時に通りかかった「おしゃれさん」であったかもしれません。

当時の私は、写真も見ていたのですが、細かい字も見ていました。

その写真に対する雑誌編集者様のコメントです。

その中で印象的でありたくさん登場していたキーワードに、「すっきりとまとめられている」という言い回しがあったことを記憶しています。

この言葉こそが、「粋:いき」や「洒脱:しゃだつ」が現れているコーデであると言えます。

余計な飾りは付いていない、その代わり、ところどころの小物使いが差し色になっていて、互いに小物同士のカラーもリンクしていたコーデでした。

このたびは、ファッション史や新聞や雑誌の書物によく登場する「洒脱:しゃだつ」という言葉と、同じ「洒」という字が入るもう1つの熟語である「瀟洒:しょうしゃ」を比較してみたいと思います。

定義としては別物とされているようなのですが、じゃあ全くの別物なのかというと共通する部分があると私は思っております。

洒脱さはメンズファッションに見つけやすい

「洒脱自在:遠山周平 著」を一読。

この中で、興味深いメンズのスラックスのタックについて書かれている部分がありました。

目次が、アイテム1つずつで配置された分かりやすい本の構造です。

その中に当然パンツも登場で、前タックの意味は「デザイン」ではなく「機能」なのだということです。

されど、そのタックのみの美しさは多くのスラックス好きが認めるところであり、自身もタック入りのスラックスがとても好きです。

こういうパーツというのは、「機能美」と言ってよろしいかと思います。

必要な最低限の機能そのままを表したデザインだということなのです。

そのミニマムさがかえって美しいのであり、とても素敵なことである、その素敵さ=機能美と解釈しています。

実際に着用するユーザー側というのは、むしろ、この美しいデザインに注目しているのですから、元の「動作による人間の身体の変化に対応した機能」を知らない人だっているのかもしれないです。

特にメンズファッションは衣服の伝統を受け継いで大きく変化しておらず、普遍的なアイテムも多いので、「洒脱さ」を発見しやすい分野だと思います。

洒脱と瀟洒の違いはどこなのか

洒脱と瀟洒の定義の根本的な違いは曖昧:洒脱=chic、瀟洒=elegantで違いのニュアンスをまずは感じ取ります。

この記事を書くにあたって、ネットでそれぞれの意味を調べるも共通するのは、「垢抜けてすっきりとしたさま」という点。

ただ、洒脱と瀟洒は別物であるということも思います。

英語の力を借りると少し分かりやすいです。

洒脱=chicなので、chicの意味の「粋:いき」は、「洒脱」に等しいと考えて良いかと思います。

一方で、瀟洒は、絵画にもその解説で本に書かれているのをここ1年以内の読書で見ています。

動物の絵や自然の絵を描かれた画家の作品の本でした。

そこにも「洒脱は粋とは違う」と明言されていたと思います。

では、答えのはっきりしていないこの2つの言葉を別の言葉を引用しながらそのテイストの違いとして書いてみたいと思います。

「瀟洒:しょうしゃ」=elegantということですが、このエレガントは、自身のイメージでは、レースとかドレスのフォーマルの場面でのしとやかな佇まいの場面に相応しいお洋服をイメージします。

そこへカジュアルテイストの抜けた感じの装いはあまり当てはまらないかと。

それに対して、「洒脱:しゃだつ」は、カジュアルな決してフォーマルな場面には向かない素材でできたお洋服でも、スッキリとまとまっていればありうることだと思うのです。

そう思うのも、英単語の、elegantが瀟洒に等しいということが正解であるというならばということですが。。

ただ、その読んだ絵画の本も、著者様の考え方であるにすぎないとすると、果たして正解かどうかは言い切れません。

では、共通の部分ですが、「すっきり感」で良いかと思います。

上の図の交わる部分にあるテイストです。

共通していない部分は、瀟洒の方だと、例えば、外も気軽に歩けないようなロングドレスがあったとして、それは野暮ったさもあると見れますので、交わる部分には入らず、瀟洒の領域からもはみ出したものなのかもしれません。

一方、同じドレスでも、すっきりとして、外へも気軽に行けるような歩きやすいドレスだったとしたら、「瀟洒」の領域には入っているのかもしれません。

じゃあ、そのドレスが、「chic:シック」であると言えないのかというと言えますので、「洒脱感あるドレスだ」などと言っても良いのでは。。もうこうなるとはっきりと定義することが難しいです。

ほぼ類似の意味の言葉同士なのかもしれません。

そうすると、図はもっと重なったものになり、共通の部分が多くなるのかな↓。

「洒脱」と「瀟洒」の共通部分がほとんどだという見方。

ここまでです。

これからもこの2つの言葉は書物では登場するかと思いますので、引き続き考えていきたいと思います。

あとがき

結局うまくまとめることができませんでした。

「洒脱:しゃだつ」と「瀟洒:しょうしゃ」はかなり共通の部分もあります。

自身の考えとしては、比べれば比べる程近い観念であると思えて来まして、2つ目の図のように最終的な共通部分が大部分の円の重なりをイメージしています。

今後も、芸術作品とか本や図鑑や新聞の解説に登場するこの2つの言葉に是非注目してみて下さい。

もしかして、今までのお洋服の見方が変わるなど、わずかなきっかけにでもなればと思います。

最低限であることこそが美しさを作る、衣服やファッション小物に飾りが多すぎることを今一度見直したい【1372】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

このたび、「江戸な日用品:森有貴子 著/喜多剛士 写真」を読ませていただきました。

江戸後期に大衆に広がった文化、これを継承した当時開業の老舗が現在でも江戸の中心の町東京の「日本橋」で営業中。

ただ、この本も2013年に発行の本なので、そこから約10年、やはりその中で「311震災」や「2020コロナ」を無事乗り越えることができたのかどうかというところが気にかかります。

大小規模かかわらず、2020年以降はかなりの老舗も苦戦。

ただ、今少しネットで拝見しますと、この本の中の老舗の1つが元気に継続中であることを拝見しました。

ネットでググるとすぐに登場発見できるということ自体、現在のネット販売の流れの波に乗っているということがまずうかがえます。

このように江戸の日用品文化発祥からは150年以上経過した今もなお継承できるその理由なのですが、1つには、そのお店でしか買えない品物という完全特化型になっていることがあるようです。

そうしますと、見込み客としては全国で、これは強いと思います。

ただ、その特化型の貴重な存在になったのも、品物がどんなものであったかも大きいです。

このたびは、長年受け入れられるその理由を考えながら「機能美」の存在について自身の身の回りのアイテムの例で深堀りしてみたいと思います。

装飾はどこまでも無限、むしろその逆を行くミニマムに装飾を落とした最低限の「機能美」の魅力

この「機能美」というのは重要なキーワード。

この本の中で箒(ほうき)を販売しているお店が紹介されています。

例えば、なぜ箒(ほうき)はあのような形なのか、ということは、そうなるべくしてあのフォルムになった素直な姿だからです。

もっと違う形になってしまっていたらどうだったのであろうかということを考えると、やはり、そこに「極限」を見ます。

もうそれ以上は表現しようがない必要最低限の姿、そして、掃除をする時の「掃く:はく」という機能を十分に果たしてくれる価値があるのです。

「粋:いき」なコーデに仕上がるワンピースがどんなデザインなのかを追求してみる

そのリボン本当に必要なの?、なぜそこにベルトがあるのか?、など疑問や違和感をもつことも時には大切で、より優れた品物がどんなものなのかをたくさんの中から見抜くヒントになるかと。。

よく自身が行うこと、ヴィンテージワンピースに共布リボンがウエストに付いていて、ベルトループと共に外すことをしています。

せっかくのデフォルトの状態ではあるのですが、ウエストは別の強いアクセントのレザーを配置したいからです。

共布は優しくてインパクトが弱いです。

なぜ決まって共布ベルトが付いているのかに関しては、共布ベルトで作る必要があった背景があったことが想像できます。

ウエストラインを美しく表現するためには絞ることであるという考え方がまずあると思います。

何も取り付けないよりもリボン的な装飾も兼ねた共布紐が本体でどうせ余る細い面積を利用するにはうってつけだということもあるのかと。。

共布ベルトもそれ自体きちんと作られていることも多く、せっかくの出来上がり品と考えて、これまでこんな風に利用してまいりました。

柄がかわいくて、もったいなくて捨てていないのです↓。

これまでヴィンテージワンピースのウエスト共布ベルトリボンを外してきて別の使い方をしている様子。

改めて、その数に驚きましたが、随分と多くのヴィンテージワンピースに共布ベルトが付いていたことが分かります。

「ワンピースには共布ベルトを付けるものだ」という「しきたり」のようなことも感じますが、本来ウエストラインを美しく見せるためにある仕様だということ、生地をできるだけ使用するためのコスパを考えた仕様であることもあるかと。

しかし、それを1ユーザーである自身は不必要だと外しているという事実があります。

もしかして、ベルトがまだまだ普及していないレアアイテムだった時代(おそらく広まる百貨店全盛期時代より前の時代だと推測)では、共布でベルトを作ってパーツの一部として仕上げるということに意味があったのかもしれません。

現在では、ベルトが「小物」の分野でその存在感がありますので、お洋服+小物というようにベルトがワンピースからも分離しているのが当たり前という解釈です。

そうなると自身が求める究極のワンピースの形というのが、ズドンとした何もないつるりとした素朴なものになっていきます。

これもある意味「機能美」が追求されたワンピースの1つの姿なのかもしれません。

もうベルトというアイテムが別で存在する以上、共布ベルトの存在はある意味「強制」。

このように装いなさいと決められてしまったようで面白みがないとも感じる自身のような者も一定数いらっしゃるかと思います。

渾身の思いでベルトをしっかりと選び自由自在にmayコーデを作っていくことに喜びを覚えます。

それほどにウエスト部分というのは視線を受ける重要ポイントなのです。

あとがき

こうして無駄な装飾や機能をそぎ落とした最低限なシンプルさこそがかっこよく素敵であると考えられます。

現在も何百年前と変わらないその姿でいる伝統的な日用品というのは、完全にそれ以上変わりようがない行き着いた極地の姿であり、同時にそのことを理解されたお品物であるということになります。

当たり前に使っている者1つ1つを改めてよく眺めてみることも「百聞は一見にしかず」です(^-^)。

見た目からの想像とは違う、モンゴルの牧畜業の難しさの実態、改めて生きていくための食や自然の恩恵について考えた【1364】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

世界のいろいろな音楽を聴くことを時々してきました。

その中で、ラテンミュージックの明るく快活なメロディーやリズムがとても好み。

一方、あまり知られてはいないのかもしれませんが、山岳地帯のような場所で奏でられるシンプルながら深みと響きのある音楽も良いと思います。

その1つとして、「モンゴリアンミュージック」がここ最近注目している音楽です。

中国とロシアの間のあのモンゴルの山々や草原で響き渡るようなシンプルで美しいメロディーを是非一度聴いてみて下さいませ。

今回は、このモンゴルの音楽をきっかけに、新書の中で目に留まった本に興味を持ちました。

モンゴルの牧畜業の変遷と実態や課題について書かれた記録や資料的な本です。

「現代内モンゴル牧畜地域社会の実態 -民主改革から改革開放初期まで- :仁欽 著」。

著者様自身がモンゴルの牧畜業を営んでいた地域出身であり、その実態を深堀りして、資料や記録といった淡々とした文章から読み手にその実態を知らせようというスタイル。

特に考えや思いが述べられていることはありませんので、多少読みにくいとかなじみのないひたすら数字などの羅列のページもあるわけですが、音楽をきっかけにこの本にたどりついたご縁として投稿してみました。

遊牧業者達は、毎日動物とたわむれ自由な日々を送っているのだろうか

遊牧/移牧/放牧という少しずつ形態の違う牧畜業の中では、モンゴルが昔から行ってきた形態は「遊牧」であるそう。

つまり「遊牧民」と呼ばれる人々のスタイルの括りとなります。

これも、現在ではやはり大きく見ると衰退の一途をたどってきていると見られます。

ほとんどが首都のウランバートルに全体の2/3の人口が集中。

遊牧民の数というのはほんのわずかな貴重な人材です。

最初に私がこの資料的な本を読んで感じたことは、その自由で気ままなイメージとは真逆の実態があると見ました。

私なりの解釈になりますが、隣接する大陸ならではの事情もあるかと。

かつては中国の影響を受け、その政策によってきっちりと統制され区分され、縦割りがなされた組織的な活動になっているかと思えました。

見た目のイメージの広い敷地を自由に行き交うというものとは反対の、たくさんの法律によって決められた制限のある業態である牧畜業であったのではないかと自身の目には映っています。

そうはいっても、民主化という名目のもとに、これまで過去の課題を解決してきたという記録は確かにあります。

しかし、全体でみると本物の自由を手に入れたようなものではないと見て取れます。

この本のスポットが一番つらい時期(?):1950年代-1990年代後半に当てられていますので、またその後の変遷が現在も続いているかと思います。

また機会があれば、時期が現在とこの先を見越した近々の部分にスポットが当てられた内容の同じモンゴルの牧畜業に関する本も読みたいと思った次第です。

そんなことを思えたということだけでもこの本を手に取った意味はありました。

あとがき

ここからは、この本の中では書かれていなかった現在2023年の遊牧民の生活スタイルです↓。

現在、モンゴル国内の牧畜業に携わる遊牧民は、「1割強」程の数というほんのニッチなものになってしまった様子。

牧畜の動物達の羊とか馬などとてもかわいい表情をしておられます。

この地域では、ここから自分達の生活のためにお乳をいただき、時にはお肉をいただくことが生きるための食糧のルーツがくっきりとクリアで、有難くその恩恵にあずかっているというもの。

お肉は食べないなど「ビーガン」というスタイルが本当に現実的なものなのかということを考えるにあたっても貴重な実態だと思います。

他国の人々が日本には今だに「忍者」が居るとか、数十年前のネットがまだ普及していなかった時代では「侍:さむらい」も現存であると思っているようでした。

それほど他国の実態というのは分からないもので、表面のイメージしか分からないものであると。

せっかくの現在のネット社会であることもあり、本で読んだことを今度はピンポイント検索でネットとか動画で見てみるという活動もよろしいかと思います。

読書後の更なる探求は、より自身の中での読んだことの深堀りに役立ちそうです(^-^)。

外国人への説明だけにとどまらない、素晴らしい未来を作るためにまず日本の文化を根源から知るための本【1353】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

「日本文化の通になる スペイン語を話す人々のための日本事典Ⅰ :遠西啓太 著」を読ませていただきました。

この本の構造そのものがユニーク。

スペイン語圏、もしくはスペイン語を話す人々向けに書かれたものです。

ページの左面はスペイン語。右面は同じ内容を日本語で漢字に読み仮名がふられています。

よく浮かぶイメージとしては、日本語で書かれた本を「訳」という形でスペイン語に直されているというものですが、それとは真逆です。

そこがとても斬新であり、スペイン語を話す人々だけにとどまらず、私達日本人にもご一読をお勧めしたいものでした。

当たり前の日常に目を背けがち、当然のしきたりやならわしこそが外国人を魅了する日本独自の文化

詳しくは本をご一読いただきたいのですが、私達日本人は、右面の日本語をひたすら読んでいくという読み方ができます。

およそ本の半分くらいの短いボリュームの文章量ということに結果なるのですが、その文章はとても魅力的。

これほどの切れ味の良い表現の仕方に読みながら感動し、第三者に自国の文化を説明する場合のヒントにもなります。

その表現の仕方、味わいに関してはこの本の著者様の技術やアイデアの集結だと思います。

日本の文化と日本人の特徴や強味を今後見つけていくことの大切さ

世界情勢が非常にめまぐるしく変化し、自国の主張も大切になってくるのでないかと思います。

意見をはっきり持つことで、強さを示すということはどんな場面においても大切なことだと思います。

そもそもこの日本に生まれついた私達がまずは、日本の文化を知り、その良さを強みに今後良い方向へと向かえることを望みます。

そんな中で一人一人できることを自然に継続していくことが生まれた国を誇りにもつことに繋がると思います。

例えば、自身の事業の事で恐縮ですが、「ハンドメイド文化」ということで考えてみます。

他国でも、アメリカのパッチワークやイギリスのスーツのクラシックな仕立てや良質な素材などそれぞれ持ち備えておられると思います。

ただ、それぞれの特徴は違ったものであるのは当然で、日本の場合だと「作りの丁寧さ、きめ細やかさ」などに特徴があるようです。

細部を細かく見ていくと、どの箇所も丁寧に作られているのが日本製の特徴だと感じます。

一見見た感じの類似品も多く、海外生産のこういった一重仕立てのポーチのようなものは、手間を省かれ大量生産の構造が成り立つようコストを削減されているものがほとんど。

その中にこういった丁寧に作られたと目で見て感じられるお品は見つかることはありません。

どれも「粗さ」が見られることが多いです。

そうしたこととは対極にある手間をそもそもかけることに苦労をいとわない「精神」なども目で見て映るものではないけれど「感じられるもの」としてあると思います。

そうしますと、物体としてこれだと表現すること以上に、「無固形」もしくは、「目に映らない精神などの分野」も考えると独自の文化は無限に眠っているのではないでしょうか。

あとがき

読んでいる新聞にも、週に一度くらい日本の文化を英語で表現したコーナーがあります。

そもそもその由来はどこだったのかなどを深堀りしていくと日本人でありながら説明できないことがほとんど。

自国の事こそ鈍くなっているのかもしれません。

けれど、今後はそこを掘り起こして発展へ向かい大きく飛躍していくべき時が来るような気がします。

文化というのは、毎日の新聞にもそのコーナーがありますので、自然に当たり前のルーティーンとしてそのコーナーだけでも読むことを導入するのも敷居が低く始めてゆきやすいかと思います(^-^)。

無形を商業に取り入れる難しさ、無形のものはみんなで共有するのが自然なのではないか。。考えた瞬間【1349】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

このたび、新書で2023年7月発行の本、「無形資産経済見えてきた5つの壁 :ジョナサン・ハスケル/スティアン・ウェストレイク 著 :山形浩生 訳」を読みました。

「5つの壁」が何なのかが最後まで読んでも全くまとまりませんでしたが、間違いなく大切な話題だと思います。

ということで、全く読み込めてはいない読書でしたが、今後大切にしていきたいことでもある無形のものが具体的にはどんなものなのか、なぜ大切にしていきたいかを私の言葉でまとめたいと思います。

無形にはどんなものがあるのか

まずは、「無形」に当たるものが何なのかに誰もが興味がわきます。

ここで、ネットによる情報になりますが、羅列していきます。

「スキル・人脈・経験・技術・ノウハウ・資格・知識・友人・家族・ブランド・信頼・口コミ・心の健康」などです。

どれも有形ではなく無形である私なりの表現として、「この箱の中に入っています」と示すことができないものであるのがこれらです。

いずれも物体ではなく、「概念、観念」みたいなものでしょうか。

これらの無形の言葉こそが頻繁に日常で使われる確かな言葉であることもこうして見てみると不思議です。

身近なことこそ大切なのではないでしょうか。

自身が考える「ハンドメイドバッグのノウハウコンテンツ販売:ダウンロード型」はまさに無形

そもそも私がこの本の「無形」というワードに惹かれたのも、自身が無形の商品を作っているからです。

まだ本格的に販売してご購入には至っておりませんが、間違いなく準備と予定をしていまして、いずれ、ダウンロード型のコンテンツ販売をしていくことにしています。

ハンドメイドバッグそのものは、物体なので、creemaのハンドメイドマーケットサイトで売れた時に手数料を何%かcreema様にお支払いすることで、そのプラットフォームをお借りしているのです。

では、無形のダウンロードコンテンツなどはそういった販売サイトはあるのか。。実際にはあります。

ただ知られていないだけです。

私もあまりよく知らずなかなか親しみにくいのですが、「infotop」というようなサイトは情報商材事業をしている方にお聞きしたことがありますので聞いたことのある名前です。

そこで、容量たっぷりのコンテンツダウンロード型を販売することができます。

自身のサーバーを使わない点がメリットです、その対価として手数料をサイトに払うということになります。

その他、「note」などもブログ掲載の他にはお値段を付けたダウンロード型コンテンツも販売できるようです。

ただ、どれも専用サイトへの手数料が金額で見るとなかなか足かせになりはしないでしょうか。

そこで、私は、自身のホームページでご案内をし、ツールの「firestorage」というコンテンツの空き容量をレンタルできるサイトにお世話になり(ある程度までは無料)、実際のダウンロード時にだけこのサイトを利用させていただくことに今はしています。

実際にすでに利用もさせていただき、アップロードの実験やダウンロードの実験もやりました。

それほど知られてはいない、特にこのサイト自体のホームページが凝ったものではないので、「随分シンプルだなあ」と感じたものです。

話は逸れましたが、このダウンロード型コンテンツ、実は私も「壁」を感じていました。

この本の「壁」に一致するところを1つだけ理解できましたのでご紹介したいと思います。

「spill-over:スピルオーバー」というワードが出てくるのですが、この意味ですが、元の直の意味は「漏れ出す」という意味。

商業でいうと、囲い込みができ切れず独自の資産だけにとどまらず、他への流出があるため、ライバル会社やその他の分野の違う企業が思わぬ恩恵を受けてしまうもの。

「棚からぼたもち」みたいなことが起きるのです。

例えば、私も、そのコンテンツにまとめたモデルと同じバッグを写真や出来上がりの動画だけ公開してしまうだけでも、パッと見て真似出来て商業に取り入れることができてしまうのです。

ミシン技術がある人は、見るだけでだいたいこれまでの自身のノウハウがあるのでパッと見で分かることも多いです。

そのことを長い期間にわたってじっくり考えました結果、出した結論があります。

それは、「私がデザインしたバッグの著作権フリー、ぱっと見の真似も良し」という、「共有型」にするというところに決心が行き着きました。

どのみち、私の考案など美術品級の独特のデザインではありませんのでもっと実用的な身近なデザインなのです。

共有型なので、同じデザインやノウハウはみんなが知れるけれども、誰一人として私も含めて個人の固有の資産として秘蔵するこができないという意味になります。

そうはいっても、仮に私が自分が考えたデザインだからと著作権を主張したところで、独自のデザインと認められる結果には到底なりはしないと予想できました。

これをしっかりご説明して文章に表示し、納得してダウンロードコンテンツをご購入いただける人というのは、パッと見の粗い見方では学べない奥深い「哲学なるもの」をお伝えできると思っています。

よって、無料と有料の違いは確かにあると思っていますので、YouTubeでご紹介の作り方の無料動画との差別化は大いにあると思っています。

YouTubeも長くて30分程度が限界です。

それ以上は編集や投稿に時間がかかり過ぎて現実的ではありません。

そうすると30分であってもそこでノウハウを十分には伝えきれないのが現実なのです。

これが1時間30分程のコンテンツの有料版であれば、ダウンロードの容量も多すぎずスマホで見れる範囲内に収まり、使いやすい参考にしやすい価値も入れ込めると見ています。

そんな工夫をするに至ったのも、やはり、自身で感じた「無形における壁」があったからで、この本の中のどの壁に相当するかはあいまいですが、少し接触できたことでこの本を読ませていただいた意味はありました。

あとがき

この先の未来では「無形」の目には直接映っていないものをより大切にしていくべきなのではないかと思うのが私の考えです。

「スキル・人脈・経験・技術・ノウハウ・資格・知識・友人・家族・ブランド・信頼・口コミ・心の健康」は、どれも大きな意味で「価値」を生み出す根底にあるものではないかと思います。

ブランドバッグ1つとってみても、そのブランドバッグの「ブランド」ってバッグのどの部分?となると、必ずしもロゴマークの部分だけとは言いきれません。

しっかりとミシンを踏み込んだ「縫い」であったり、丁寧に作業された様子が全体の雰囲気として「良質だ」と感じるものです。

そうすると、その「縫い」の部分には、ひょっとして、「技術やスキル」が見えないところで入り込んでいたり、「良質」なバッグであることで、後のバッグ製造業者の「信頼」につながっていく1つの過程であったりもします。

末永い事業の継続やその後の発展も「目に見えない無形の力」こそが本当の意味では、実は「原動力」なのかもしれません(^-^)。

その美しいうねりはまるで丹後の海のよう、「丹後ちりめん」生地との出会いから興味を持って出会った「うらにし」の物語【201】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

ハンドメイドバッグをコンスタントに製作しております。

これまでは、販売することを重点においての製作でしたが、現在はぐるりと方向転換。

ハンドメイドバッグを作る人との共有を目的とした、「共有型のハンドメイドバッグ」というコンセプトで製作しています。

今までの販売目的ではなかなか見えなかったこともこの共有型のスタイルにしてからは見えることも多く、良かったと思っています。

まだまだ十分に共有し切れていないですが、間違いなく一歩は踏み出したと思います。

今後も製作したものを、その原価から細かいワザまで、隅々まで引用のしがいがあるものとしてお届けできることが目標です。

さて、これまでいろんな生地でハンドメイドバッグを製作してきましたが、特にこの生地は本当に美しかったという生地が「凹凸感ある生地」です。

ジャガード、フクレ加工、風通加工などふくらんでいたり、でこぼこした様相が高級感や美しさを作ります。

その中で、「縮緬:ちりめん」もよく使わせていただいた生地です。

今回、ある1冊の本を手にしました。

それは、「丹後ちりめん物語 「うらにし」の風土と人間 :八木康敞 著」。

京都の北部の海岸寄りの地域です。

ここを、「うらにし」とざっくりと呼ばれていて、主に地方の呼び名のようなものです。

「弁当忘れても傘忘れるな」の海岸沿いの地方に言われのある昔からの言葉があります。

天候には非常に悩まされるのですが、それこそが、湿気の多い地域ならではのメリットとして「ちりめん」という収縮率のある素材が生み出されたのです。

ちりめんは、「湿気が多いと縮む」という特徴があり、湿気こそが製造に必要な環境だということです。

中央集権的な背景からその伝統産業を守ってきた歴史

ちりめんのライバルは、「西陣織」。

ちりめんは、「女工哀史」という記録にも書かれているようなよく映画になった蚕から織物を作っていく機織りの女性労働者達の低賃金での苦しい労働に重なります。

メイン職にはならないようで、副業的に女性が長時間労働をさせられ、へとへとになりながら頑張ってきた産業。

そんな時代に、「課税」が施行され、大きな農民一揆が起こっています。

今でいうブラック企業の分かりやすすぎる姿だと言えます。

一揆は反発です。そうして労働者達の権利や人権を勝ち取るべくみんなで一丸となった奮闘記。

今後のサステイナブルな時代のヒントになります。

無理強い、対等でない雇用関係というのはいずれ反発や崩壊が起きるのです。

華やかな中国から伝来の生地とちりめん生地との比較

ちりめんの製造も現在は衰退しほんのわずかしか残らない状況のよう。

私がやっと見つけた、この生地↓。

黒:ストレッチ丹後ふくれちりめん、ポリエステル/95%、ポリウレタン/5%、日本製。

「丹後ちりめん」と名乗られた生地はこれしか今まで出会っていません。

元の丹後ちりめんは絹製ですので、現代風の服地になるものです。

ポリウレタンも入っていてニットみたいな弾力性があります。

ふくれ加工もしてあるので、元のちりめんの姿からすると複合型の生地ですね。

次は、ちりめんのイメージに一番ふさわしいもの↓。

イエローベージュ:ちりめん、ポリエスエステル/100%、日本製。

まず、ちりめんと聞いてこのイメージが浮かびます。

複合型ではないシンプルなちりめんでもこのようにうねりが全体にあって美しいです。

糸の撚りが格段に多く、ハサミでカットしたその切り口の糸のほつれはめったに起こりません。

グレー:ちりめんジャガードプリント、ポリエステル/100%、日本製。

こちらは超複合型で、ちりめんに、ジャガードもプリントも両方組み合わさった豪華な素材です。

お出かけのブラウスやワンピースを思わず想像してしまう服地です。

ちりめんは、日本らしい和素材の1つですが、その他の和風な素材も元は中国から伝わってきたものです。

少し異国情緒あふれています。

・「蜀紅錦:しょうこうのにしき/しょっこうきん」・・・中国の蜀(しょく/四川省)で製作された錦(にしき)。仏壇の敷物みたいな装飾のイメージです。

・「繻珍:しゅちん」・・・繻子(しゅす)地に金銀やカラーの糸を模様で織った生地。上の蜀紅錦と同類。

・「緞子:どんす」・・繻子(しゅす)地に裏組織で模様を織った反転のようなジャガード。

・「綸子:りんず」・・・すぐ上の緞子に類似するが、もっとペタンコ(精練による)。

・「紗綾:さや」・・・上の綸子に同類。

呼び名は違いますが、それぞれ類似であったりするので、今のところはっきりした区別は私が出来ていません<m(__)m>。

ただ、これらと比較すると、「縮緬:ちりめん」はその見た目が明らかに違います。

上のキラキラした素材いくつかは金や銀などのカラーを豊富に使った装飾性がありますが、ちりめんだけは、シンプルな無地1色でもその凹凸感を表現してあり、最も素朴な織物と解釈します。

あとがき

この先、「丹後ちりめん」とはっきりと謳ってある生地にどれだけ出会うことができるのか。

おそらくわずかだと思います。

ちりめんも「ガチャマン時代」という1960年代の全盛期は過ぎた産業になってしまいました。

それでも、生地というもの自体がこの先も残っていくなら、是非この美しい特有のうねりのある粋な素材が残ってほしいと願っています。

「しなやかで強くて美しい」、そんな姿がとても素敵だからです(^-^)。

自身の「生きがい」とは。。この物資に恵まれた時代だからこそ持っていたい自分にしか持てない宝【1306】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

「生きがいについて:神谷美恵子 著」を読ませていただきました。

かつてこの本が初版された頃(1966年)の1960年代では、まだまだ「ハンセン病」という感染系の病気が不治の病として存在していました。

伝染効果は少ないものの、各地の片隅の施設に療養するために強制的に実家を離れるということがありました。

現在は療養施設に行くことはなく、治る病として病院の治療で回復するようですが、それでも、当時からの継続で高齢者となりそのまま現在も療養施設で暮らされている方がいらっしゃるようです。

この本は、そういったある1つの療養施設の当時の1950-1960年代にかけてのルポタージュの記録部分が多く、「精神科医」であった著者様がその訪問を通し、「生きがい」をたくさんの切り口から掘り下げた1冊の本になっているのです。

当初かなりのボリュームであったところを削るなどして読みやすくコンパクトにしとのことですが、それでもこの本は結構な分厚さでした。

たくさんの思いを、7年程の長期スパンに渡り詰め込まれたこの本は、命がけで綴られたものだと思います。

私の「生きがい」は何なのか

なかなか自身の生きがいを語ることはお恥ずかしいものですが、間違いなく私の場合は「仕事」だと思っています。

若いころの20代前半くらいまでは、常にモヤモヤした煮え切らない感がずっと心にありました。

何か思い切って全力でやり切ったことがあったであろうかと振り返ると、何もかもがあれよあれとという間に自分とは違う別のペースに後からついていくのがやっとで何も自分のスタイルですべてのことを成し遂げていったという実感が無かったことへのもどかしさが思い出されます。

その転機は20代前半に訪れまして、「就職」だったと思います。

初めての勤務日(正確には入社式を含む研修期間の数日が最初)の前には、なぜかすごくやる気があふれていて、メキメキと何かよく分からないパワーみたいなのがあふれ出しそうだったことを思い出します。

それからというもの、長い仕事期間の道を歩み始めて、今現在までこの「仕事」こそが「生きがい」になっていることに気づきました。

10代の頃のあのモヤモヤ感や煮え切らない感が20代以降の仕事では全くなく、すべての仕事に対して楽しく、真剣に取り組んできたことがあります。

そうして、いつからか、「死ぬまで仕事をし続けたい」ということを自然に思うようになりました。

この「死ぬ」ということをわずかながらに意識することこそ「生きがい」につながります。

「生きる」を意識するには「死ぬ」も関わっているということです。

この本の中のハンセン病の患者様達も一度は「自殺」を考えた人も多いようです。

それくらい、死ぬことと生きること両方の境目を経験された方達なのです。

そうして、長い1995年から続いた会社員の日々から、2018年の頭で個人事業主に切り替わり、自分の裁量でずっと永続的に働き続けていけることの道に立ったのです。

その道の中で、今こうして2023年を迎えています。

過去のモヤモヤした煮え切らない10代とは全く対極にある「はっきりとした意思表示をしながらのまっすぐなスタイル」に変わっていきました。

事業者でモヤモヤした煮え切らない態度では到底事業など成り立ちません。

まずは、この道に立てていることに感謝したいです。

「生きがい」というのは、「人生をかける程の何か」だと思うのです。

あとがき

現在、自殺者の増加や希望を失い気持ちが沈む大変な状況の人が多く、現代の物があふれた時代の「虚無感」があると思います。

お金をたくさん得ることを目標にしたり、ブランド物を手にすることを目標にしてしまうことは大きな誤解ではないかと。

物もツールであり、お金もツールであるのが本当の所ではないでしょうか。

「物」とか「お金」などの物質を拠り所としてしまうことは、どれだけ集めても満たされない何かを最終的には感じてしまう、その何かが「生きがい」だと思うのです。