まえがき
こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。
このたび、「江戸な日用品:森有貴子 著/喜多剛士 写真」を読ませていただきました。
江戸後期に大衆に広がった文化、これを継承した当時開業の老舗が現在でも江戸の中心の町東京の「日本橋」で営業中。
ただ、この本も2013年に発行の本なので、そこから約10年、やはりその中で「311震災」や「2020コロナ」を無事乗り越えることができたのかどうかというところが気にかかります。
大小規模かかわらず、2020年以降はかなりの老舗も苦戦。
ただ、今少しネットで拝見しますと、この本の中の老舗の1つが元気に継続中であることを拝見しました。
ネットでググるとすぐに登場発見できるということ自体、現在のネット販売の流れの波に乗っているということがまずうかがえます。
このように江戸の日用品文化発祥からは150年以上経過した今もなお継承できるその理由なのですが、1つには、そのお店でしか買えない品物という完全特化型になっていることがあるようです。
そうしますと、見込み客としては全国で、これは強いと思います。
ただ、その特化型の貴重な存在になったのも、品物がどんなものであったかも大きいです。
このたびは、長年受け入れられるその理由を考えながら「機能美」の存在について身の回りのアイテムの例で深堀りしてみたいと思います。
装飾はどこまでも無限、むしろその逆を行くミニマムに装飾を落とした最低限の「機能美」の魅力
この「機能美」というのは重要なキーワード。
この本の中で箒(ほうき)を販売しているお店が紹介されています。
例えば、なぜ箒(ほうき)はあのような形なのか、ということは、そうなるべくしてあのフォルムになった素直な姿だからです。
もっと違う形になってしまっていたらどうだったのであろうかということを考えると、やはり、そこに「極限」を見ます。
もうそれ以上は表現しようがない必要最低限の姿、そして、掃除をする時の「掃く:はく」という機能を十分に果たしてくれる価値があるのです。
「粋:いき」なコーデに仕上がるワンピースがどんなデザインなのかを追求してみる
そのリボン本当に必要なの?、なぜそこにベルトがあるのか?、など疑問や違和感をもつことも時には大切で、より優れた品物がどんなものなのかをたくさんの中から見抜くヒントになるかと。。
よく行うこと、ヴィンテージワンピースに共布リボンがウエストに付いていて、ベルトループと共に外すことをしています。
せっかくのデフォルトの状態ではあるのですが、ウエストは別の強いアクセントのレザーを配置したいからです。
共布は優しくてインパクトが弱いです。
なぜ決まって共布ベルトが付いているのかに関しては、共布ベルトで作る必要があった背景があったことが想像できます。
ウエストラインを美しく表現するためには絞ることであるという考え方がまずあると思います。
何も取り付けないよりもリボン的な装飾も兼ねた共布紐が本体でどうせ余る細い面積を利用するにはうってつけだということもあるのかと。。
共布ベルトもそれ自体きちんと作られていることも多く、せっかくの出来上がり品と考えて、これまでこんな風に利用してまいりました。
柄がかわいくて、もったいなくて捨てていないのです↓。
改めて、その数に驚きましたが、随分と多くのヴィンテージワンピースに共布ベルトが付いていたことが分かります。
「ワンピースには共布ベルトを付けるものだ」という「しきたり」のようなことも感じますが、本来ウエストラインを美しく見せるためにある仕様だということ、生地をできるだけ使用するためのコスパを考えた仕様であることもあるかと。
しかし、それを1ユーザーは不必要だと外しているという事実があります。
もしかして、ベルトがまだまだ普及していないレアアイテムだった時代(おそらく広まる百貨店全盛期時代より前の時代だと推測)では、共布でベルトを作ってパーツの一部として仕上げるということに意味があったのかもしれません。
現在では、ベルトが「小物」の分野でその存在感がありますので、お洋服+小物というようにベルトがワンピースからも分離しているのが当たり前という解釈です。
そうなると求める究極のワンピースの形というのが、ズドンとした何もないつるりとした素朴なものになっていきます。
これもある意味「機能美」が追求されたワンピースの1つの姿なのかもしれません。
もうベルトというアイテムが別で存在する以上、共布ベルトの存在はある意味「強制」。
このように装いなさいと決められてしまったようで面白みがないとも感じる方も一定数いらっしゃるかと思います。
渾身の思いでベルトをしっかりと選び自由自在にmayコーデを作っていくことに喜びを覚えます。
それほどにウエスト部分というのは視線を受ける重要ポイントなのです。
あとがき
こうして無駄な装飾や機能をそぎ落とした最低限なシンプルさこそがかっこよく素敵であると考えられます。
現在も何百年前と変わらないその姿でいる伝統的な日用品というのは、完全にそれ以上変わりようがない行き着いた極地の姿であり、同時にそのことを理解されたお品物であるということになります。
当たり前に使っている者1つ1つを改めてよく眺めてみることも「百聞は一見にしかず」です(^-^)。