まえがき
こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。
アパレルが今後変わる時に来た、変わっていかなければならないという過去で一番の危機・変化の時です。
そんな重要な時期だからこそ、今、この本を読んでおきたいと手にした本。
「20世紀日本のファッション トップ68人の証言でつづる:大内順子(インタビュアー)/田島由利子(ライター)」を拝読。
4cm程の厚みの本ですが、もう面白くて面白くて次々に読み進めてしまうほど。
年代別の日本のファッションの草創期1950年代の芽吹きからどんどん読み進め、1980年代後半の低迷期でページの最終を迎えます。
ファッション史なるものは、世界的に見ればフランスがその聖地と言えます。
1900年のパリ万博の大きなウェーブはかなりそのきっかけになったかと。。
その頃の日本というのは、まだ着物を着ていた人も大半の時代、パリ万博にも文化として着物が紹介されました。
着物からお洋服に変わっていき、戦前と戦後でも大きく生活が変わる中で、あまり表立っては語られていないような、戦前の老舗アパレル会社が生まれる様子などもこの本では興味深く知ることができました。
「この会社はもとは、こんな前身であったのだ」という点などあまり知られていないことが分かるのも、構成が該当会社様やデザイナー様本人が語られたインタビュー記事の集まりである所も大きいです。
他人が語ることよりも、本人が語ることのリアルも貴重です。
戦前にも繊維メーカーやアパレルの老舗は芽吹き始めていた
その昔江戸時代、「奢侈禁止令」というものが発令され、贅沢を禁止されるという命令が下されることがありました。
その奢侈(しゃし)の対象になった素材は「絹」。
ここから、「絹:シルク」がいかに高級な素材であるかが計られます。
戦前に「これからは洋服の時代だ」ということがテーマになり始めていたようで、この戦前に平たかった土の中からアパレルが芽吹き始めていたと言えます。
「百貨店」の出現がデザイナー様とのタイアップで洋服の広がりに大きく貢献したのが大枠の見方ですが、戦前は呉服店の形であったなどその前身はすでにあったのでした。
大衆に広まるには、百貨店などの「集客型施設」の存在あっての恩恵もあったということになります。
1960年代は、アパレルは伸びていく一方で、少しアイデアを出しただけの企画が飛ぶように売れたという、この「飛ぶように売れる」というフレーズが1960年代の1つのキーワード、現在では使いたくても使えないフレーズになってしまいました。
聖地パリと日本人デザイナー様との結びつきのきっかけ
現在でも有名デザイナー様達は、「文化服装学院」出身であることが多いです。
ここがいわゆるプロのデザイナー様の登竜門とも言えるのかもしれません。
ここ近年有名デザイナー様達が続々とお亡くなりになってしまいした。
パリの「メゾン:洋服会社」で従業員として働くことがきっかけであるという道をたどられている地道さも本当はあったのです。
いきなり電光石火のごとく現れて、スターになるというデビューの仕方ではなかったのです。
そうして、多くの日本人デザイナー様がパリのメゾンで働くことをきっかけにその後、そのファッション文化を日本に持ち込んだり、世界的に活躍されたパリ生まれのデザイナーとして引き続き活躍されたりしました。
遠く離れたヨーロッパと日本の老舗ブランドとの結びつきのきっかけになった素晴らしい橋渡し的役割を担われ優れた伝達者であったかと。
ライセンス事業の名残は、ヴィンテージ物のブランドロゴマットなどに感じられる
その他、「ライセンス事業」に携わったという軌跡がより大衆にブランドが広まったきっかけだと思います。
有名な海外の老舗ブランドのロゴのお洋服が百貨店で購入できるのは、ライセンス事業が背景にあったのでは。
贈答品のブランドロゴのタオルやマットの風景にその歴史を垣間見ることがありました。
昭和時代がこういったライセンス事業の全盛期であり、現在はもうその面影はほとんど残っていません。
こうして、アパレル全体としての大まかに見た盛り上がりいうのは1960年代をもって下降線をたどっていったと感じます。
あとがき
されど、決して完全になくなることはない「衣」の分野。
こうした悲しい流れは、ファッション好きにとっては残念な姿ではあるのですが、こうした流れこそ変化であり一部成長であるとも言えるのでは。
これまでの生産構造そのものの見直しが、劣悪な環境の労働の例で露わになり、隠された膿のようなものがめくられ暴かれたと考えます。
そんな今後でもこの道で事業活動をやっていきたいのかどうかさえ事業者本人が問うために、過去の歴史と軌跡を「移り変わりや流れ」として知っていることが必要だと考えます。