派手と地味は本来対等の立ち位置にあるのでは。。どんな服の着方にも必ず宿る着る者の「考え方」にこそ注目したい【227】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

人間である以上、必ず伴うもとのとして「服を着る」という行動があります。

ファッションに興味がある・興味がない関係無く、誰もがお洋服を纏うのです。

この万人共通の行為は、その一人一人の「スタイル」が現れるもの。

「スタイル」というのは、体型のイメージをまず思い浮かべるかもしれませんが、体型も含むもっと一人の人間の生き方までにも及ぶ存在感すべてを表すと思っております。

そんなことから、「人となり」「人生」を表す程、「衣」が大切であるとこれまでもお伝えしてきたのです。

このことを受け止め、本当の自分らしさを意識せざるを得ない、お洋服をもっと重んじるべきなのではないかということをお伝えできればと思います。

更に、着る側のみならずその表現を拝見する側にも注目、着ている本人以外の目線や見方も同じ上述のようなベースで見てあげるべきだということを同時にお伝えしたいと思います。

「ファッションに興味が無い」という逃避が効かない、「興味が無い」という考え方すら服装が「スタイル」として映し出す

これはあくまでも個人的な印象ですが、「ファッションに興味が無い」という方は、こんなイメージの服装をされていることが多くないでしょうか↓。

無彩色な服:興味が無い人はカラー配分などを考えることさえしない、この姿こそそんな考え方を映し出します。

一方で、ファッション好きでもあえてこの無彩色コーデを好む人もいます(私もそうです)。

無彩色という共通なカラーは、様々な考え方の人達が共有していることになります。

カラフルな服:この派手さを表面的に捉えずに、考え方やスタイルを見る側も理解することが大切だと考えます。

「服には無頓着、何でもいいのだ」という考え方の人がこのように装っても、本当はそれほどお洋服の着こなしは得意ではないということ他人の目に映るかもしれません。

見る側の自分以外の視点こそ、自分という人間の理解であり大切なのではないかと。

服は本来は「機能」中心で生まれたものだと思います。

長い歴史の中で「自由」を市民が得たことで、一律な制服から脱却し個人の表現がしやすくなっていったかと。

そうすると、なお「見る側」の見方も今後大切であり、まるで舞台の演者と観客の関係のようなものです。

「いやいや、舞台になんぞ立ちたくないよ」とひっそりと目立たない服を着ている人も、毎日を過ごし行動し街を歩くわけで、それも立派に舞台に立っていると言えます。

究極こんな表現をしてみました↓。

「人間である以上、舞台に立たざるを得ない」、お洋服はそんな大切な存在、決して軽んじるべきではないのではないかと。

軽んじた分、その装いにそうした考え方も反映され、見る側がそれを感じ取るということになります。

あとがき

以上のことから、人間が一人一人個性的であることにイコールでお洋服が自由なものであるべきということも言えませんかね。

そういった点で、お洋服は自分らしい表現ができるツールなのだという前向きな考え方を持つと良いと思うのです。

ただ「ファッション」では「流行」が起こることで本来の良き千差万別の中に一定の傾向ができてしまう、これがより「思いのままに着る」ということを困難にしているのではないかと考えます。

山田絵美
書き手:ピクチャレスク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください