惜しみなくアウトプットしたアイデアやノウハウを多くの人に伝える「手放す」素晴らしさ、対極の「秘蔵」と比較してお伝えしたい【1153】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

後で貼りますYouTube動画とは違った内容をここでは綴りたいと思います。

関連付いてはいることなのでそのまま動画は残し、当ブログ記事ならではの内容とさせていただきたいと思います。

実は当ブログ記事は、最初の投稿の2022.11.07からおよそ2年後の2024.10.14にブログ記事の「手直し」の順番で、タイトルから見直し綴り直しをしております。

2022年当時は、コンテンツ制作をどんどん進めたくて、2デザイン目を考えているというところをYouTube動画に投稿したのでした。

しかし、コンテンツ制作は、その後の学びも追加され見直されて、なかなかたやすくまとめられるものではなく、2024年10月現在でもまだ1デザイン目を制作中なのです。

このたびは、こうして学びをすべて惜しみなくアウトプットしていこうと思うこの考え方に対して、「なぜそんな馬鹿なことを。。」と思う考え方への反論メッセージを含めて、「手放す」ことの素晴らしさを説きたいと思います。

「手放す」ということが実際になかなかできないのは、「自信の無さ」によるノウハウ全般の「秘蔵」に他ならない、手放すことで得られるものとは何なのか

「人に伝えていく」ということは本来生き物として自然なことではないかと思います。

そうした大々的な規模の進化や発展がたった一人の意識から始まったことなのかもしれないからです。

ハンドメイド活動は、「デザイン」「ノウハウ」に関して、確かに物を作ったその時点で、「著作権」が自明のものとして生まれます。

素敵なお品物の案がヒットした場合、写真を見た別の人が真似ていく、そういった人がたくさん増えて元の発案者が「損」をするという構図。

そこに対して恐れを感じ、真似する人を憎むということが起きます。

これはかつて、もわずかな規模ながらあったことで、その時に随分悔しい思いをしたものです。

しかし、現在思うことは、そういった気持ちも技術が足りない「自信の無さ」からくるものだったと思うのです。

現在は、著作権など解放すればよいなどと思っておりまして、自ら考案のものが本当に著作物であるデザイン性とまで評価されるのだろうかなどと、未知のことを自己判断することこそ無駄な労力だと思っています。

以上が自分が著作者である場合に該当する側から見た現在の考えです。

そして、もう1つの面があります。

それは、出来上がりの素敵な品物に対して真似をしていく人についてです。

よく冷静に考えてみてほしいのは、人を踏み台にして自分が良い物を生み出そうとするその根本です。

本当に良いものは一番下から這い上がって作っていったものであるべき、途中からワープして楽をしての製作は、他の苦労を踏みにじる行為だと思うのです。

ここは、ハンドメイドの中では非常に大切な分岐点。

独自の製作をちゃんとしていくのか、模倣の道を選ぶのか。。これこそがアパレル業界の構図そのものではないかと。

「真似された時に本当に手放しで喜ぶものなのか、それはおかしいのではないか、悔しくて当然ではないか」との反論にこのようにお答えしたいのです↓。

はい、この気持ちは間違いなく合っています。

ただ、その後の行動が大切であり、ちっぽけな規模であれば、大掛かりな事では決してないことだとまず考えます。

そして、真似されたものはすでに「レッドオーシャン」に近いと感じるのです。

次の新しい発見を探し、アイデアを巡らせ続けるところへ「一抜ける(いちぬける)」ということをするのです。

そうすれば、アイデアを次々に生み出し、違う方向へどんどん動いていける新しい自分を得ることができるのです。

ブログなどに謳う「ワード」に関してもそう、これだけSNSが利用されてネット上にアウトプットをしている以上、拾われて「いいとこ取り」されるのは仕方がないのです。

そういった方々は日々なかなか思いつかない苦しい枯渇したアイデアに対して辛い思いをしておられるのですから。

それが分かった時には、ヒョイとかわしながら、別の方向へシフトしていけば良い、また新しい表現を見つけてゆけば良いのです。

あとがき

どうでしょう、こうした「捨てる」「手放す」考え方は、なぜか非常に気持ちが良く感じるのです。

それによって別のことが得られるなら、ただ失うだけではないということです。

「手放す」ことで得られることは何なのでしょう、他ならない「幸せ」なのではないでしょうか(^-^)。

「うちのオリジナルです」は本当にそうなのか、「オリジナル」の商品と「模倣」の商品の決定的な違いを考えてみました【704】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

どのような事業者様もほとんどが「商品」があると思います。

ダウンロード型のコンテンツパッケージであっても、あのソフト自体が「商品」なのです。

ほんのたまに、間に入る仲介的な役割が「手数料」だけで成り立っている事業もあるかもしれませんが。。

特に、自社で製造して1点作り上げていくような事業では、その「オリジナリティ」という言葉が浮かびます。

ファッションの分野では、大半が一流ブランド様の模倣をして作られてきた「トリクルダウン型の商品」が数が一番多く、トリクルダウン構造のトップのハイブランド様がいわゆる「完全オリジナル」というイメージです。

このたびは、「オリジナル商品」とはどんな定義なのだろうということを考えてみたいと思います。

真似されることこそが広く知れ渡ったという余裕ある考え方ができるハイブランド様の例

特にこういった模倣のお話では「シャネル」様が際立つ存在です。

たくさんの模倣をされてきたブランドだと言えます。

創業者である、「ガブリエル・シャネル(通称ココ・シャネル)」の考え方として、「模倣されればそれだけ認知されて広く知れ渡った証である」と語られていたそうです。

創業者様は、著作権などの縛りでブランドを守ることをせず、むしろその点は放っておく考え方であったと聞きます。

ただ、周りの製造側の仲間がそれを許さなかったかもしれませんが。。

その真似されても強気でいられる根底には、模倣されても必ず首位の座を譲らない確固たるものがあると分かっているからだと考えます。

模倣した側は、同じレベルに並ぶことは難しく、ほとんどがそれ以下でしかないので、ほとんどが大きくかけ離れた本物未満のお品になるかということを考えますと、真似された側の第一人者みたいな存在は強いです。

ぱっと見だけでの模倣は限界がありますので、どう頑張っても2番手ということに。。

ネットで流行っていそうな素敵な商品を見て真似していく「市場調査から生まれる商品」について思うこと

ネットを見て真似して製作していくことが特に悪いということではないのかもしれません。

しかし、オリジナリティをとことん追求した一流ブランド様の例を見れば、その路線が明らかに違うものになっていくのです。

そもそも違う道を歩いているということは少し恐ろしいことです。

ここで、オリジナルと模倣との定義のようなものを言葉にしてみました。

「オリジナル」:哲学や技術が多く盛り込まれた商品・・・長い期間の資産となり得る。

「模倣商品」:デザインを真似た奥の浅い商品・・・どうしても流行に乗ることになり、短期間の資産。

こんな風にまとめてみました。

哲学と聞くと難しそうな話だと思ってしまいますが、そんなことはありません。

分かりやすくは、「なぜ」に答えられるかとどうかという「理由」が明確な「考え方」を投影されたものであるかどうかということ。

ハンドメイドバッグの場合だと、なぜ、その形なのか、なぜ、そこにポケットをそのサイズで取り付けたのか。。などです。

そこを説明するその内容が「哲学」という難しめの言葉で表されるだけであって、身近で日常的なものに過ぎないものなのです。

にもかかわらず、自分で考えず他からの引用だらけの傾向は結構見た目に表れているものです。

あとがき

音楽を例にしてみると、その楽曲が商品であるということから、そこに「哲学」なるものを入れ込むという点では、ハンドメイドバッグ作りにも共通するものがあります。

少し古風な楽曲であっても、超個性的過ぎて難しそうな楽曲であっても少々ごつくてもオリジナルの曲なのか模倣なのかで大問題にもなることがあります。

特に著作権に敏感だと思われる音楽の分野も、ハンドメイドの分野も同じことがベースにあるような気がしてなりません。

同じ「つくる」ということだからでしょう。

そのメロディーを少し聴いただけで、このミュージシャン様の歌だと予想出来たりすることは、ハンドメイドバッグで、この部分の作りがこの作り手っぽいなあと思ってもらえることが「印」のような部分になり、オリジナルである証になろうかと思います。

今回、「模倣・真似」の商品に対する1意見としての考え方をお話しました。

とはいえ、芸術作品ではない以上、「商品」なのですから、「完全オリジナル」などと謳うことが的外れであり、究極でも「オリジナリティあふれるもの」という表現が「オリジナル商品」に対しての最高の評価なのかもしれません。