まえがき
こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。
無料で読ませていただけたネット上の「銀河鉄道の夜:宮沢賢治 著」。
ひょんなことから冒頭部分を読み始めたことがありました。
セミロングな長さでありますこの作品、「未完の作品」だったとか。。
このファンタジーのような不思議な物語は、昨今のスピリチュアル界隈のたくさんの発信によって理解されやすくなったのではないかと思います。
これが存命と死去の違い、苦しみを真正面から実体験できている3次元での「今」こそが生きている「証」であると考えざるを得ない

物語の中の「カムパネルラ」の複数の行動がポイントです。
主人公「ジョバンニ」の親友でもある「カムパネルラ」は授業中にも友人「ジョバンニ」をフォローする場面がありました。
そしてある決定的な日が訪れてしまいます。
貧しくアルバイトをして病気の母を見守る父親不在の家庭の「ジョバンニ」をいじめる仲間内のボス的存在の「ザネリ」。
「ザネリ」が川で溺れかかったところを「カムパネルラ」が助け自らが帰らぬ人となったという出来事が「ケンタウルス祭」の夜に起こります。
おそらく、この「カムパネルラ」の死去の瞬間にある不思議な線が生まれ、存命である「ジョバンニ」までも「カムパネルラ」と一緒に体験する死後の旅の列車に乗ったのです。
乗車駅の切符を持つ「カムパネルラ」は亡くなった人、一方なぜか一時的にその世界線に迷い込んだ「ジョバンニ」は降車駅の無いフリー切符という違いです。
友人をフォローしたり友人の命を助けた「自己犠牲」を伴う行いをしてきた「カムパネルラ」には、列車の旅の高い位置の降車場を与えられたのでした。
途中、低い位置の降車場の向こうで目にした「鳥を捕まえて生業にする男」の存在は、存命の時代での評価を受けての場所。
それならば、存命の「ジョバンニ」の列車の旅の行き先の自由な切符の意味は。。
彼にはまだ降車場は用意されていない、決められた停車場を持つ資格を持つ者ではないということ、つまり生きている者である証拠です。
そのフリーの切符は、今後あらゆる可能性を持った自分次第のこの先の3次元の地球での人生を意味しているのです。
再び現実に戻った時に、2つの「幸い」が起こりました。
1つは、「ザネリ」が助かった事、もう1つは「カムパネルラ」の父親が息子の死を目の前にしながらも、「ジョバンニ」に父親が近く戻る吉報を教えてくれたこと。
自己犠牲の究極は「死」、「自己犠牲」が誰かの「幸せ」との引き換えになったという意味の重さを1読者は教えていただいたのです。
あとがき
最後に「ジョバンニ」のその後の人生を想像してみたいと思いました。
全体の印象としては、間違っても恵まれた環境でもない中、学校でも仲間外れな存在だったのに常に「前向きさ」を感じたことです。
そんなひたむきな姿に対して応援したくなる気持ちが湧きました。
大人になればこれまでの歩みが花開き、おそらくこの昔を懐かしく振り返りながら徳を積んでいくかもしれないと。
そして、いつか命が果てた時、あの「ケンタウルス祭」の夜と同じように、今度は行き先の載った切符で列車の旅をするでしょう。
切符の降車場は高い高い銀河の果てであることを、1読者は願うのでした。
その後、作者「宮沢賢治」について別の著者様が考察した「霊感」や「天然石」についてのご縁(えん)について書かれた本も拝読。
それが<読書>カテゴリーの中の【623】の記事の投稿です。
そう、このような四次元的な世界観を知る人間でなければこんな風に描けなかった物語。
著者「宮沢賢治」様自身が「シャーマン:霊感を持った人」気質の人間であられたのです(^-^)。

