まえがき
こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。
「翻案:ほんあん」というのは、元は小説だったりしたストーリーに脚色を加えて映画化されたりすることです。
例えば、「松本清張」様の「ミステリー」のドラマ仕立ては見応えがあります。
このたびは、いくつかが映画化されてきた作品を含む「アメリカ文学」についての案内本のご紹介です。
この本を一読で読みたい本が決められるのではないかと手にした本です。
それは、「アメリカ文学入門:諏訪部浩一 責任編集」という本。
執筆者様はそれぞれの項目で多数に渡りまして、合計14名が掲載、3名の編集委員様とともに代表の編集責任者様を筆頭に出来上がった多くの力の集結の本。
学生様の「卒業論文」の手引書のようなものとして元は書かれたのではないかと推測します。
多民族が集まるアメリカは、かつては「メルティング・ポット・・・多文化が溶け合って融合」と呼ばれ、ここ近年では、さらに、「サラダ・ボウル・・・多文化がそのまま共存」という表現が生まれています。
多民族が集結するアメリカならではのまとまり方なのだと。
そして、そのそれぞれの作品も、時代ごと著者様ごとに様々であるところが1つに偏らないところに複雑さと深さが見られます。
それぞれの著者様1名のに対して2ページずつに渡り載せられた活躍の時代の様子の写真付きの書物です。
アメリカ文学本のどれを読もうかと興味を持ったその入り口の時点では、まず御一読をお勧めしたい本でした。
最後が決してハッピーエンドではない「モヤモヤ感」や「灰色の気持ち」の正体は、「ironical:アイロニカル:皮肉」にある
テレビドラマや映画においても、最終結末が必ずしもハッピーエンドではないことがあります。
「アメリカ文学」においては、そんな結末のストーリーの集結と言えるのかもしれません。
実際に短編集を読んだ過去に、とても「苦味」を感じたものでした。
なぜそのような気持ちになるのかというのが、より辛く暗い実態を象徴的に映し出している、もしくは、正直に映し出しているからなのでしょう。
そのことが分かりやすく伝わり、何度も映画化されている「The Great Gatsby:F・スコット・フィッツジェラルド 著」。
あの、「華麗なるギャツビー」のことです。
「目指した夢は幻のようなものでしかなかった」という締めくくりがかえって、実態を映し出しているかのようで、とても切ない気持ちになるのです。
今後読みたい本が決まる、「アブサロム、アブサロム!:ウィリアム・フォークナー著」について
最後まで読み終わったところで、早速読みたい本のタイトルが決まってきました。
それは、「アブサロム、アブサロム!:ウィリアム・フォークナー 著」です。
比較的長編であり、「上巻」「下巻」に分かれている出版社様のものもあります。
図書館にあったタイプは、この上下に分かれている片手サイズの単行本でした。
もう、この記事を綴っている時点ですでに読み始めております。
タイトルだけで2度も「アブサロム、アブサロム」と繰り返し、果たして文中にこの言葉がどこで出てくるのだろうか、ちゃんと出てくるのだろうか。。
この「アブサロム」はどんな意味なのか、呪文なのだろうか。。
ワクワクしながらの読み始めとなりました。
なぜこの本を非常に多くの作品の中で選んだのかは、特にはっきりとした理由はありません。
ただの直感であり、それも出会いだと思っております。
その他興味のあるユニークなタイトルとして、「宙ぶらりんの男:ソール・ベロー」。
どんな男の様子を描いてこのタイトルなのか、背景は何なのか興味がわきます。
きっかけは何でもよいかと。
とにかく惹かれたものを素直に読んでみるところが入り口なのでしょう。
あとがき
意外な事なのですが、「読書」は最も心を静める「ストレスを軽減するもの」だとのこと。
「賑やかにどんちゃん騒ぎをするこでは決してない」のが意外です。
このたびは、直接無関係にも思える分野の本ではあったのですが、分野を特に絞り過ぎないところもむしろポイントにするようになりました。
読書ライフを取り入れてこれで5年以上が経過。
図書館で借りていくスタイルが非常にぴったりと合いました。
「新書」もチェックしていますが、ほとんどがレンタル中。
かなり「アメリカ文学」の歴史でもここ最近にまで及んだSF小説なども含まれていて、ミュージシャン「ボブ・ディラン」様も「ノーベル文学賞受賞者」という位置付けから掲載がありました。
情報の更新が目まぐるしいここ近年では「新書」の良さがあります。
目を引くものは分野問わずチェックすることを心がけています。
物語の中に、「何を伝えたかったのか」を読みとるということは、現実的には人間の行動から読む心理とか、なぜそうしたのかの理由などを読み取ることに通じるものがあります。
決して、小説がその読み手に何も関係が無いということはなく、むしろ同じ人間として大いに関連することなのです。