必ずしもハッピーエンドとは限らない、むしろ対極な「苦味」のある結末こそが心揺さぶる「アメリカ文学」らしさ【366】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

「翻案:ほんあん」というのは、元は小説だったりしたストーリーに脚色を加えて映画化されたりすることです。

例えば、「松本清張」様の「ミステリー」のドラマ仕立ては見応えがあります。

このたびは、いくつかが映画化されてきた作品を含む「アメリカ文学」についての案内本のご紹介です。

この本を一読で読みたい本が決められるのではないかと手にした本です。

それは、「アメリカ文学入門:諏訪部浩一 責任編集」という本。

執筆者様はそれぞれの項目で多数に渡りまして、合計14名が掲載、3名の編集委員様とともに代表の編集責任者様を筆頭に出来上がった多くの力の集結の本。

学生様の「卒業論文」の手引書のようなものとして元は書かれたのではないかと推測します。

多民族が集まるアメリカは、かつては「メルティング・ポット・・・多文化が溶け合って融合」と呼ばれ、ここ近年では、さらに、「サラダ・ボウル・・・多文化がそのまま共存」という表現が生まれています。

多民族が集結するアメリカならではのまとまり方なのだと。

そして、そのそれぞれの作品も、時代ごと著者様ごとに様々であるところが1つに偏らないところに複雑さと深さが見られます。

それぞれの著者様1名のに対して2ページずつに渡り載せられた活躍の時代の様子の写真付きの書物です。

アメリカ文学本のどれを読もうかと興味を持ったその入り口の時点では、まず御一読をお勧めしたい本でした。

最後が決してハッピーエンドではない「モヤモヤ感」や「灰色の気持ち」の正体は、「ironical:アイロニカル:皮肉」にある

テレビドラマや映画においても、最終結末が必ずしもハッピーエンドではないことがあります。

「アメリカ文学」においては、そんな結末のストーリーの集結と言えるのかもしれません。

実際に短編集を読んだ過去に、とても「苦味」を感じたものでした。

なぜそのような気持ちになるのかというのが、より辛く暗い実態を象徴的に映し出している、もしくは、正直に映し出しているからなのでしょう。

そのことが分かりやすく伝わり、何度も映画化されている「The Great Gatsby:F・スコット・フィッツジェラルド 著」。

あの、「華麗なるギャツビー」のことです。

「目指した夢は幻のようなものでしかなかった」という締めくくりがかえって、実態を映し出しているかのようで、とても切ない気持ちになるのです。

今後読みたい本が決まる、「アブサロム、アブサロム!:ウィリアム・フォークナー著」について

最後まで読み終わったところで、早速読みたい本のタイトルが決まってきました。

それは、「アブサロム、アブサロム!:ウィリアム・フォークナー 著」です。

比較的長編であり、「上巻」「下巻」に分かれている出版社様のものもあります。

図書館にあったタイプは、この上下に分かれている片手サイズの単行本でした。

もう、この記事を綴っている時点ですでに読み始めております。

タイトルだけで2度も「アブサロム、アブサロム」と繰り返し、果たして文中にこの言葉がどこで出てくるのだろうか、ちゃんと出てくるのだろうか。。

この「アブサロム」はどんな意味なのか、呪文なのだろうか。。

ワクワクしながらの読み始めとなりました。

なぜこの本を非常に多くの作品の中で選んだのかは、特にはっきりとした理由はありません。

ただの直感であり、それも出会いだと思っております。

その他興味のあるユニークなタイトルとして、「宙ぶらりんの男:ソール・ベロー」。

どんな男の様子を描いてこのタイトルなのか、背景は何なのか興味がわきます。

きっかけは何でもよいかと。

とにかく惹かれたものを素直に読んでみるところが入り口なのでしょう。

あとがき

意外な事なのですが、「読書」は最も心を静める「ストレスを軽減するもの」だとのこと。

「賑やかにどんちゃん騒ぎをするこでは決してない」のが意外です。

このたびは、直接無関係にも思える分野の本ではあったのですが、分野を特に絞り過ぎないところもむしろポイントにするようになりました。

読書ライフを取り入れてこれで5年以上が経過。

図書館で借りていくスタイルが非常にぴったりと合いました。

「新書」もチェックしていますが、ほとんどがレンタル中。

かなり「アメリカ文学」の歴史でもここ最近にまで及んだSF小説なども含まれていて、ミュージシャン「ボブ・ディラン」様も「ノーベル文学賞受賞者」という位置付けから掲載がありました。

情報の更新が目まぐるしいここ近年では「新書」の良さがあります。

目を引くものは分野問わずチェックすることを心がけています。

物語の中に、「何を伝えたかったのか」を読みとるということは、現実的には人間の行動から読む心理とか、なぜそうしたのかの理由などを読み取ることに通じるものがあります。

決して、小説がその読み手に何も関係が無いということはなく、むしろ同じ人間として大いに関連することなのです。

まあるいキュートなデイジーのイメージの定着がファン増大の証、売却してでも残したかった大切なものは「これまでの軌跡」ではなかったか【1180】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

「マリー・クワント スウィンギング・ロンドンの伝説」を映画館にて観賞。

ファッション系の事業のほんの片隅に携わる者として、ファッション映画を時々観賞し、思うところをブログ記事にまとめています。

有名デザイナー様が次々に映画化、この方も世界中で有名になった貢献者。

このたびは、事業の実りと人の一生を絡めた見方で、思うところを綴りたいと思います。

1つのブランドの永続がいかに難しいかということ、実るまでも1世代のみではなかったことも衰退もある中で「継承」の大切さもある

「マリー・クワント」様の旦那様の支えが大きかったと伝えられていました。

明るくマーケティング上手な周りの支えの1つ、成功の影には自分以外の大切な協力があるのです。

旦那様が50歳代で1990年に亡くなります。

特に日本が大部分の市場であったことからだと思うのですが、最終的には事業を日本企業に売却済の現在とのこと。

ブランド存続の危機の究極な場面で、魂の領域にまでに考えた「せめてこれだけは。。」というたった1つのことは何だったのか。。考えに考え抜かれたことだと思います。

これまで長きにわたって思い続けた「精神」を他企業様によるブランド継続に託したというような形に見えました。

今までの苦労や込めてきた思いをすべてその「精神」に詰め込んだと言えます。

とても切ないですが、ブランドの存続だけを一番に選択した判断。

自分が考えてきたデザインや製作は自分で見届け管理したいと思うものですが。。

しかし、現実としてそれが受け入れられなくなった時に、終了してしまわずに、それでも続けていける方法があるのか。。

これを考えると、一見矛盾しているようですが、「手放す」ということも実は「存続」につながることがあるのです。

そんな究極な姿なのではないかと思います。

一人の人間の一生の中で物事が華やかに達成されることは本当に恵まれています。

某有名ブランド様は「前世」が靴屋。

その時代は日の目を見ることが無かった地道な靴屋としての活動で一生を終えた人物がいたということ。

そして、同じ魂が次の世代で世界的有名ブランドとなったというのも、いかに人間の一生などはかないものなのか。。ということになります。

「継承」こそが大切、その良きバトンタッチのようなものがあってこそ、長く創業当時の「精神」が続いていくのではないかと思いました。

そういった意味でも、「マリー」様の最後の選択は良い選択なのではないでしょうか。

この映画公開のおよそ半年後、ご本人がお亡くなりになっています。

あとがき

「今後こんな優れたデザイナーは生まれないであろう」などと言われ、そのロゴやブランド名のみが継承されていくことがあります。

ご本人のデザイナー様がお亡くなりになってもその後ブランド名が存続するのは、継承の1つの姿。

それは元をたどれば最初の創業デザイナー様の「魂」がいまだに生きているということなのだと思います。

継承もただの商業目的では決してこうまで続いていないはず、いつまでたっても創業デザイナー様へのリスペクトありきであるべきで、実際にそのような気持ちで継承されてほしいと思います(^-^)。

わざわざログインする手間をかけてまで購入した商品のレビューを投稿する時、「大きく心に響くような感動」があった時のみ(あくまで私見)【932】

まえがき

こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。

基本的に「ショッピング」が多い方だと思います、商品を購入する機会がとても多いのです。

あらゆるサイトでネット購入だらけなのですが、最後に評価やレビューというものがあります。

通販のレビューはよほどでなければわざわざログインしてまで投稿をせず、なかなかレビューまで投稿するクセが付いていないのです。

通販では、「ヤフオク」「メルカリ」などのサイトのように受取連絡の必要が無い「楽天市場」「アマゾン」は購入して受け取って終わりです。

受取連絡と評価が連動しているシステムは否が応でもレビュー的な文言をお伝えしやすいようになっていますので、この仕組みの違いは一番大きいと思います。

「義務化」の圧倒的優越性なのではないでしょうか。

ただ、特殊なケースとしまして、珍しく通販のレビューを投稿する時は、時間にも余裕があり、商品を含むそのお取引すべてに対してものすごく感動があった時です。

やはり、そのわずかな時間でも労力があるので、サイトに再びログインして購入履歴ボタンを押して、レビューするまでにも数分かかります。

よって、「どうしても伝えたい気持ち」がある時と「もらえるポイントが大きい」時だけにどうしてもなってしまいます。

では、もし逆の立場であったなら。。

やはりフィードバックがあった方が今後への見直しや考え方の確認などができ、有難いものだと思うのです。

このたびは、ほんのたまに書いたレビューの内容を思い出しながら、どんな状況の時に書くのかということを振り返ってみたいと思います。

悪い評価をするくらいなら電話をかけて解決、書かずにはいられない感動があった時に書く良いレビューの内容とは?

評価には悪い評価も付けることは可能ですが、悪い印象である以上、すでにトラブルのもとになっているような商品であったということです。

連絡をとるなり、電話をするなりして早く解決してしまいますので、悪い評価ということに対しての価値をあまり感じておりません。

「評価をすることにすら値しない」というのが最悪の時の気持ちです。

では、良い評価の時に、どういった内容なのかということです。

1つのポイントとしまして、「具体的な使い道を混ぜ込む」ということです。

これは、出品者様にとって、とても重要なフィードバックになるかと思います。

なぜって、出品者の立場であることも多くあるから逆の立場でそう思うからです。

「ヤフオク」「メルカリ」「ラクマ」は個人の場合も多く、「通販」は大手のお店や会社様が多い。。この違いもあります。

ただ、いずれにしても、「お品物を受け取る」いうことが共通していますので、製造者が求めることは、製造のその後だと思うのです。

よって「使い道」をある程度レビューでお知らせすることで、その商品がこの後どのように使われていくのかという製造者にとっても大変有益な情報をお品物のお礼にしています。

確かに、お品物の対価としてお金は払っていますので、更なるレビューまでとなるとやはり大きく心が動いた時ということになります。

そして、使い道をお伝えするにあたって、同時にそれを楽しみにしている様子や使うイメージ「使うことで起こる価値:とてもおしゃれにまとまりそうですなど」は、まさに提供側が今後品物に入れ込む価値の研究材料ではないですか。

こうした意味でも、製造者とユーザーとの意思疎通というような面では、レビューは大変貴重なきっかけだと思うのです。

ここまでの有益な情報をレビューという形でお伝えするケースというのは、それだけ「心に響くお品物」ということに循環していきます。

レビューがたくさん集まることで商品のレベルがアップするのならとても意味がある行動ということになります。

あとがき

以前に「ヤフオク」様で、出品者様が落札者様であるお客様をものすごい勢いでけなしている評価がありました(あり得ないような信じられない行為)。

とんでもない方がいるものだと思ったものですが、ああいったことは結局意味がありません。

長い目でみて、良い商品を提供する未来になるためのフィードバックであるということが断然意味がある内容です。

とにかく世の中に良質なお品物が隅々まで出回るようになることを目指すには、本当はすべての品物に評価があるべきなのかもしれません。