まえがき
こんにちは。picturesque(ピクチャレスク)です。
たまたまネットでオンライン購読が可能であった「銀河鉄道の夜:宮沢賢治 著」。
ひょんなことから冒頭部分を読み始めて、そこから一気に最後まで。。
「銀河鉄道の夜」に関しては、多くの学生さんが読書感想文を書かれている作品だと思います。
セミロングな長さでありますこの作品、「未完の作品」だったとか。。
人のために尽くすということはどういうことなのかを究極の形で映し出す
学校の授業の場面。
先生の質問に上手く答えられないジョバンニ。
そして、その答えは分かっているのに分からないふりをして答えなかったカムパネルラ。
カムパネルラが明らかに知っている答えを自分のために答えなかったあの場面の時に、ジョバンニは、「自分もカムパネルラも悲しいと思った。。」と。
このことは、少し状況の違う別の人間が互いに同じシーンで、悲しい気持ちを共有した瞬間だと思いました。
カムパネルラという少年の、自分を犠牲にしてでも人を助けるという性格。
ここに親譲りの「育ち」のようなものを見ます。
親譲りをなぜ感じたかというのが次の場面。
ザネリが川でおぼれかけたのをカムパネルラが助け、結果帰らぬ人となった場面。
そして、そこへカムパネルラの父親がかけつけ、落ち着いた様子で、もうカムパネルラの生存が難しいだろうと冷静に語ります。
それどころか、ジョバンニに、お父さんが近く帰ってくるだろう吉報を伝えます。
自分の息子が亡くなったそのような時にさえ、他人の吉報を伝える配慮。
カムパネルラの姿勢は、おそらく父親から受け継がれた「継承」のようなもの。
この自己犠牲は、エゴで満ちた人間には是非とも知ってほしい姿。
まずは、自分の前に人の幸せを考えてあげる例が親子ともどもに感じられました。
「銀河鉄道の旅」はまさに死後の世界を分かりやすく象徴的に表現している
ところで、この物語を1つだけある「絵」で表すとしたら、銀河鉄道の旅の途中の場面でしょう。
善い行いをしていたカムパネルラの生き方そのものが評価されたような形の遠く高い宇宙の降車駅。
いろいろな人が列車に搭乗しては途中で降りていくのですが、カムパネルラのように最後の方の駅(上の方)で降りる人というその決められた片道切符が、「徳:とく」の高さを評価されたと感じます。
これは、他人のために自分を犠牲にしてまでも尽くしたという人間への高い評価をだと解釈できます。
しかし、カムパネルラは死者となった身。
やはり上の方の駅ではあっても、やがては、他の人と同じように列車を降りて銀河の闇に消えてしまいました。
ジョバンニは、この旅で一瞬だけではありましたが、何らかの霊感みたいなもののせいで死んだ後の体験に触れたことになります。
死んだ人しか知ることがない宇宙の列車の旅に参加する体験をほんのわずかの時間だけ味わったということです。
ここで「はっ!」と思うことが。。
ここ最近YouTubeで視聴させていただいた、「臨死体験」をした人のエピソード。
その臨死体験は、よく日本人の中で言い伝えられている「三途の川」のお話。
生きている間に誠実に生きてきた人は、美しく素敵な景色の場所へ行ける、その逆の人は暗い場所で心も晴れないと、そしてその場所がその先も永久なのだと。
列車の旅の途中で、二人(主人公ジョバンニとカムパネルラ)は鳥を捕らえて生業(なりわい)にしている男性に出会います。
しかも、時間が経過しても相も変わらずただ同じ場面であり、そこからの変化も発展もありません。
この男性に対してジョバンニは、「本当に心からその仕事をしたいのだろうか」と疑問を持つ場面が印象的。
臨死体験の人がこうもお話されていました、「いくら頑張って働いてきた人生であったとしても嫌々ながらその仕事をしたのでは死後はハッピーではない」と。
まさにこのことに符合。
ということで、「シャーマン」的な霊感を持っていたと言われる著者「宮沢賢治」がこの列車の停車場である駅を段階付けて示し、人生をちゃんと生きた人には高い位置の停車場で降車する切符を配布したのです。
その鳥の男の降車駅とは随分かけ離れた高い位置の駅とのその距離の意味は3次元での物理的な人生においてやってきた過去の行いの「差」。
一方それらのいずれでもない、生きているジョバンニが持っている切符はどこでも自由に行けるフリー切符。
まだ人生がポテンシャルを秘め、この先いかようにもなりうる無限の可能性があることを行き先自由のフリー切符で表現していると思うのです。
これが生きている人と亡くなった人の違い、苦しみを真正面から実体験できている3次元での「今」こそが生きている「証」であると考えざるを得ない
「ずっとこれからも旅していこうよ」と列車内でカムパネルラと誓い合いたかったジョバンニでしたが、大きく二人が違っている点は、カムパネルラは、もう生きてはいない人間であるということ。
ジョバンニにはある「生命」というものをカムパネルラはもう失ってしまった状態にあるのです。
どれだけ格の高い停車場で降車できたとて、カムパネルラには、その降車以外の選択肢はないことを「残念」とか「悲しみ」として私達読者に伝えます。
裕福ではなく、母が病気で、牛乳こそが大切な母の毎日の栄養源。
そしてそれを買うお金を作るため、小さい子供なのに大人に混じって毎日学校後に労働をするジョバンニ。
ぎりぎりの、際どい暮らし。
けれども、毎日地をしっかり踏みしめて1日1日貴重に明るく生きていることがとても力強いと感じられます。
おそらく友人たちの輪からも外れ、いじめられている様子がどの読者の目にも明らかであるけれど、そんなことは大変な1日のたくさんのタスクの中のわずかな部分でしかない。
それだけにこだわってもいられない、その前向きさはまるで宝物のようにキラキラと輝いている。。
このキラキラは、銀河鉄道の旅のはるか彼方の停車場に点在していた美しいトパーズなどの色鮮やかな天然石にリンクします。
カムパネルラの父親が教えてくれた、父がじき帰ってくるという吉報、苦しい毎日の中に舞い込んできた幸せと喜び。
ジョバンニにとっては最高の幸せです。
命の尊さ、生きているということの次元を分かりやすく、死の次元を見せることで「宮沢賢治」様はそれを示したと考えます。
生きている人は、今自分がいる次元というものが当たり前すぎて、見失っているもの。
死後の世界を旅する経験をしたジョバンニは、貴重な「メッセンジャー」的役割。
著者様の死後もそれを永遠に伝えていくには。。
物語の主人公というのは、その物語が読まれる以上、永久のもの。断然著者様よりも永久に生き続けるものです。
「宮沢賢治」様は、永久的な発信者としての任務をジョバンニに託したのではなかろうかと。
感想まとめ
列車の旅の次元が高い降車場では、美しい宝石がキラキラと輝く色とりどりの明るい世界が存在しています。
その風景こそ、いわゆる「天国」の象徴だと思えます。
そんな次元の高い降車場で降りられる人の条件を考えてみました。
1)人の気持ちに寄り添うこと・・・ジョバンニや父親の他人の心の深い部分を思いやる行動でそれを例として示している。
2)自分に誠実であること・・・貧しく辛くとも常に胸を張って明るく前向きな主人公ジョバンニが将来高き次元の駅で降りることができる可能性を鳥を捕まえる仕事の男との対比に垣間見る。
亡くなってこの3次元から姿を消した後に行くであろう銀河鉄道の降車駅を降りたって存在する場所を生前の人生の過ごし方が決めるのだということです。
人に対して嫌な態度をとったり、やりたくもない仕事を無理して頑張るなどの本当の気持ちに向き合わない生き方は、1)2)とは対極の事。。決して「あの世」では評価されないのです。
他人のことを思いやり、自分の気持ちに正直に心から納得できる行動、そしてライフスタイルを送るべき「理由」を、そうしてきた結果がどうなるのかということを次元を超えた見方でこの銀河鉄道の旅が教えてくれました。
「ツキ」のない自分の人生を嘆くなかれ、当たり前の毎日の中にあるささやかな幸せ、喜びに感謝するのだ。
人生における「苦楽」は、この世に生をいただいた者の宿命であり、様々な「苦楽」を丁寧に受け止めながら、正直に前を向いて歩いて行かれますよう。。
あとがき
何か後々心にずっしりと重みを残したこのお話。
時々、こんな風にブログで読んだ本の感想を書きます。
今回、小説が題材なのは珍しいです。
小説だけをそのまま読むとなかなか理解が難しいです。
最初にこの記事を書いた2020年8月14日投稿をその3年後の2023年7月15日、さらに2024年3月11日に手直し(リライト)しています。
まずは、読んだ後にネット上で可能な限りレビューを拝見。
その後、作者「宮沢賢治」について別の人が考察した「霊感」とか「天然石」についてのかかわりについて書かれた本も読ませていただきました。
それが<読書>カテゴリーの中の【623】の記事の投稿です。
そして、途中でも触れました、臨死体験をした方のお話を拝見したのがここ最近の2023年6月頃です。
ここで、この物語の私なりの解釈が随分まとまることになります。
ただ、こんなことも未だに引っかかったまま↓。。
それは、いじめていたリーダー的な者が助かって生き延びた、人を思いやっていた者が亡くなったという事実。。
これは何か意味するところがあるのだろうかというところです。
この世の矛盾とでもいうのでしょうか、いい人が早くなくなるみたいな。。
もう十分この世では尽くして来たからそこで終わる運命の者、まだまだ成長のしなければならない使命として、生かされたということなのかです。
それでも死後の評価は正当に下されるものなのだということがメッセージなのでしょうか。
もしかして、再びこの続きを考える時がこの先あるのかもしれません、その時はここにまた文章を書き加えることになるかもしれません。